旧本坊勧修院久山家とは?

久山家は、明治まで勧修院といい、戸隠山顕光寺の別当家であった。

別当とは、社寺に置かれ、その山の一切を取り仕切る長官のこと。現在も久山家入り口に遺る「守護不入の碑」(写真入レル:後送)は、当時の警察権を有する守護の権威も及ばないという権力の象徴である。

徳川家康により戸隠山神領千石が安堵(保証)され、当時の別当俊海は、天海僧正により更に高い身分を得ることとなった。顕光寺は、天海が創建した寛永寺直属の末寺として、信濃(長野)・越後(新潟)の天台寺院を統率する地位が確立し、その後、歴代別当は将軍に謁見する栄誉をも得たのである。

戸隠山の別当は、神領千石の他、三院の境内地・所有する山林などの管理、社僧の統制、比叡山・東叡山を始め近隣諸藩との交渉の担い手として、本坊と呼ばれる別当屋敷内に於いて、執事役、代官、寺侍などを抱え、大きな権限と責任を負い、多くの行事と執務に当ったのである。

 

その後、明治維新に際し布告された神仏判然令により、戸隠山は神社としての道を選択した。当時の別当慈谿(じけい)は、戸隠山最後の別当にして、戸隠神社最初の神主として、戸隠神社の発展に寄与したのである。名を、久山理安(あやおさ)と改め、神社の地位向上、戸隠講の設立、財政の安定化などに貢献、たゆまぬ神社改革に努めた。

 

昭和17年、別当家旧本坊は、火難に遭い、その姿をとどめていないが、現在の久山家神殿に祀(まつ)られる九頭龍弁財天女尊、大黒天神は難を免れ、今なお霊験あらたかな佇まいで、信仰を寄せる人々を迎えている。

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